思ったことを「メモ」にとっておく

主に読んだ本の備忘録として「本の抜き書き」と「思ったこと」を書きつづり、さらに本以外のことでも「メモしたこと」、「考えたこと」についてつづっているブログ

10年前の3.11を忘れないための記録@東日本大震災


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投稿日:2021年3月11日

 

 

今日は東日本大震災の発生からちょうど10年。

 

あれから10年も経ってしまっている。10年という「時の期間」は長い方ではないだろか。しかし、東日本大震災は、ついこの前の出来事のように思えてしまう。

 

とはいえ、「人間は忘れる生き物」だ。

 

現実は10年も経っているのだから、すこしずつ忘れていくこともあると思う。

 

だから、10年前の自分や自分の周りに起こったことを思い起こして忘れないように自分用のメモとして書き残しておく。

  

 

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Image by Pexels from Pixabay

 

 

 

■午後2時46分直前

 

2011年の3月11日午後2時頃、ボクはマンションの自宅の中にいた。この日は朝から自宅でパソコンに向かって翌週に予定していた研修で使うプレゼン用資料を作成していた。

 

妻は勤務先へ出勤していたので、部屋の中にはボク一人だけだ。

 

 

 

■午後2時46分直後

 

パソコンの画面をじーっとみながらキーボードを打っていたとき、自分のカラダが少しゆらつくのがわかった。一瞬「めまい??」と思ったがすぐに地震と気づいた。

 

大きい地震の揺れは、なんともいえない全体が揺れる感覚があり、自分ではコントロールできないということを強制的に自覚させられる。

 

その揺れが数十秒つづき、次第に大きくなっていく。このときに、「この地震はけっこう大きいかもしれない」と思った。

 

さらに揺れている時間がこれまで感じたことがないほど長い。1分以上続くような揺れはこれまでの人生の中で経験したことがなかった。

 

建物の揺れ方と地震の長さから、直感的にこれは近くで起きたというよりも、遠くでかなり大きな地震だおきたと思った。

 

揺れがおさまり、すぐにテレビをつて、NHKにチャンネルをあわせた。 

 

速報が映し出され、宮城県で震度7とアナウンサーが冷静な口調で話している。そして、大津波警報も発令された。

 

地震の大きさからいって、かなり大きな津波がくるのだろうと思った。津波の3時頃に到達して高さは3m~6mの予測。数字だけからはどれくらいの高さになるのかいまいちピンとこない。

 

ニュース報道をみていて途中でわかったことだが、東京で震度5強を記録したところもあった。ボクが住んでいるところは東京23区外で震度4であった。

 

だから、家の中で家具などが倒れたりすることもなかった。本棚にあったバランスの悪かった本が1冊倒れたぐらいだ。

 

 

■午後3時前後 

 

この地震の揺れがおさまってから、ボクはテレビの前に釘付けになっていた。東京でも建物から煙が出ていたり、津波が到達が観測されたというアナウンスがあったり。でも確か最初は30㎝とか20㎝とかそういった高さだった。

 

あれだけ揺れて、それぐらいの高さですむのかと、その時は思った。

 

 

■午後3時過ぎ

 

津波が港に流れ込んでくるライブ映像が流れはじめた。じわじわとゆっくりと入り込んでくる映像だった。

 

そのうち、どんどん流れこむ海水の量が増えていき、クルマを押し流し、軽く浮かせている。津波って、最初は静かに、ジワジワとものすごい勢いで流れこんでくるものと映像をみて初めて知った。

 

船や建物がながされ、誰もどうすることもできない様をテレビの映像を通してみながら、現実感がなかった。特殊撮影の映像のような感覚があった。

 

現実の映像として受け入れることにどこかで抵抗があったのかもしれない。

 

最近、このときの映像を撮影した方へのインタビュー記事が公開されていた。取材していたときの生々しさがよく伝わってくる。どんな気持ちで撮影していたのか…

 

note.com

 

 

 

■午後4時~

 

各地から、あり得ないような映像がどんどん入ってきて、それをアナウンサーが冷静に伝えていた。それがかえって、現実感を遠ざけている感じもした。

 

発生から1時間以上たっても、余震がしばしば起こっていた。余震も割と大きい。そしてテレビには、がれきと土砂を押し流しながら津波が田畑を押し流して高速道路のところまでいく映像が流れていた。

 

テレビの映像から、津波の破壊力とエネルギーの凄まじさに驚きと怖さを覚えた。 

 

 

地震発生から1時間以上たっても、津波という地震以上の破壊力をもった災害がしつこくやってくる。

 

そのころには津波警報も予想高さを10m以上としていた。

 

妻の携帯に電話をかけてみたが、通話混雑で通じなかったので、メッセージを送った。職場の建物がかなり揺れたらしいけど無事であった。

 

 

 

■午後6時頃

 

この頃、地震の大きさは国内観測史上最大のM8.8であることを知った。また、都内の電車・地下鉄のほとんどが不通になっているとアナウンスしていた。そして、実際に翌日まで動くことはなかった。

 

ボクはこの日、家にいたが、前日は神田で仕事をしていたので1日ズレていたら、ボクも帰宅困難者だった。神田から歩いて帰るとどれくらいかかるのだろう。

 

 

 

■午後10時頃

 

妻は地震が収まったあとは、ふつうに仕事をしたようだ。職場にはテレビもないので、どういう状況になっているのかよくわかっていなかったみたいだ。帰る頃になって、電車が動いていないことがわかったようだ。

 

妻の職場は電車とバスで40分ぐらいのところ。クルマでいくと夜は片道30分くらいだ。妻の携帯にはつながらないので、ボクは会社に電話してみたら通じた。とりあえずクルマで迎えにいくことになった。

 

いつもなら30分あれば行けるところだが、驚いたのは夜の10時という時間なのに外には人や車が多かったのだ。幹線道路はクルマが多くて渋滞して動かない。

 

いつもは使わない、裏道などを通っていこうとしたが、そこも混んでいるのだ。これには驚いた。結局1時間半かかって到着。そして、そこから帰るのに1時間半。家についたのは午前1時頃だった。

 

妻は帰宅してはじめてニュース映像をみて衝撃を受けていた。

 

 

 

■2011年3月12日

 

翌日は土曜日で仕事はなかったので、翌日も朝からニュースをずっとみていた。

 

そして、気象庁の訂正で、この地震がマグニチュード9.0という巨大地震であったことがわかった。

 

この震災による死者もどんどん増えていく。その9割が津波によるものだ。

 

12日のお昼過ぎには、福島第一原発で水蒸気爆発が起こった。なんか、いろいろ終わったなとそのときは思った。被害がチェルノブイリ原発事故を超えるんじゃないかと。

 

 

 

■その後

 

翌週になっても、震災報道が中心で、「いいとも」が放送休止となり、お笑い番組が途絶えた。CMもメッセージ性の強いCMばかりになった。

 

ボクの予定していた仕事も延期となり、しばらくは何もしていなかった。

 

都内でも余震は頻繁にあって、揺れていないくても、ずっと揺れているような感覚があった。地震酔いだっけ。

 

地震から10日ほどたって、やっと「いいとも」が放送再開したことで、日常が戻ってきたような感じがした。

 

その後も、電力不足から「計画停電」(輪番停電)が行われた。ボクが住んでいるところも夜の時間帯で2回停電があった。

 

3月の夜に電気が使えないことの不便さをしみじみと感じた。ガス給湯器は電気で動くのでガスも使えない。エアコンも、床暖房もつかえない。

 

外に出てみると、あたりはすっかり暗くなって、交差点では警察官が手信号で交通整理をしている。近くの駅だけは明るくなっていた。供給電源が別なのだろうか。

 

震災に直接見舞わまれた方々が、電気やガスのない日々を過ごしたことを思うと、比べるものにならないけど大変不便だったのだろうと感じた。

 

 

■2021年3月11日

 

そして、今も、東北沿岸は復興が続いている。死者が16000名ほどで、行方不明も2500人ほどいるという。10年経っているけど、あのときのことはつい先日のことのように思えてならない。

 

この記憶は忘れてはならないし、風化させてはいけない。

折々に記録を読み、映像をみて生命に刻んだことを思い出すのだ。

太陽が必ず上るように、地震も必ずやってくる。そして何度でやってくる。

そのときに、すぐに反応できるように備えておきたい。

 

 

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福島第一原発での一連の出来事を描いた映画が、

2021.3.12 よる9時〜11時24分

日テレの金曜ロードシネマで放送予定。

kinro.ntv.co.jp