思ったことを「メモ」にとっておく

主に読んだ本の備忘録として「本の抜き書き」と「思ったこと」を書きつづり、さらに本以外のことでも「メモしたこと」、「考えたこと」についてつづっているブログ

2億年前からあるチカラ @ 『共感の時代へ』


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 相手の痛みや喜びが我がことのようにわかる。このことを共感する力といいます。この共感について研究してまとめた大著を最近読みました。かなり骨太な本ですが、至るところにはっとするようなエピソード(実験)!?が紹介されていて考えさせられます。
 

■動物には共感する力はあるのか?

 共感する能力はいつから人間に身についたものなのか? 他の動物はどうなのか? 小学生の頃、飼っていた犬のことを思い出します。ボクが嬉しいときは一緒に喜び、怒っているときは怯え、悲しんでいるときは慰めるような表情をしていました。きっと犬は、そういった人の気持がわかるのかも知れないとなんとなく思っていました。
 
 この『共感の時代へ』を読むと、動物実験・観察を通して哺乳類には「共感」の能力があるということがわかります。一つひとつがとても興味深いのですが、全部は紹介しきれませんので、ボクにとって一番興味深かったところを読書メモとして紹介します。
 
『共感の時代へ』フランス・ドゥ・ヴァール著

共感の時代へ―動物行動学が教えてくれること

共感の時代へ―動物行動学が教えてくれること

 

■痛みに同情するマウス

 先ずは、よく動物実験でも使われるマウスです。解剖実習ということで、事前に天国へ逝かせておく必要があるようですが、その解剖実習に必要なマウスを「頚椎脱臼」によって殺す教授がいたそうです。それを観ていたマウスはどう思ったのでしょうか。心理学者ラッセル・チャーチの「他者の痛みに対するラットの情動的反応」という論文を通してこんなことが書いてあります。
 

レバーを押してエサを手に入れるようにラットを訓練した。そして、レバーを押すと隣のラットに電気ショックが与えられるのを知ると、ラットが押すのをやめることを発見した。これは驚くべきことだ。なぜラットはたんにエサを手に入れ続け、電気の流れる格子の上で仲間が跳ね回るのを無視しないのだろうか? ラットが押すのをやめたのは、気が散ったからなのか、仲間が心配だったからなのか、それとも、自分のことが心配になったからなのか? おそらく、痛みを感じた別のラットの姿か声か匂いが、生来の情動反応を引き起こした可能性が高く見える。おそらく、あるラットの苦しみが、別のラットも苦しめるのだろう。

  
さらに、マウスでも同様の痛みの実験を行ったところ、痛みの共感があることがわかりました。他者が苦しむところを見ると、痛みに対する自分自身の反応も強まるという結果でした。
 

苦しんでいるのが見知らぬマウスの場合には、感受性が鈍った。見知らぬ他者に対する反応では、マウスは著しく消極的になった。だが、この反共感的な反応は、オスに限られていた。

 
なんと!人間と似ているような・・・。
 

■サルの場合はどうか?

サルについても同じような電気ショックの実験について書かれています。
 

仲間に電気ショックが与えられる場合には、鎖を引いてエサを取るのを拒んだという。ただし、ラットはほんの短い間、行動を中断しただけだったのに対して、サルはエサを取ることをずっと長く拒み続けた。自分の行動が仲間にもたらす影響を目撃してから、鎖を長く引かなかった。彼等は文字通り飢え死にしかけてまで、仲間に痛みを与えるのを避けていたのだ。

 
他者の痛みを与えることが本能的に嫌なことであって、後天的に学ぶことではないのですね。サルやマウスへの実験からそれが伺えます。
 

■共感する脳

リップスは共感のことを「本能」と呼んだ。私たちはそれを持って生まれるということだ。彼は共感の進化について推測することはなかったが、今では、共感は進化の歴史のはるか昔、私たちの種よりもさらに前までさかのぼると考えられている。おそらく子育てが始まったときに生まれたのだろう。二億年に及ぶ哺乳類の進化の過程で、自分の子どもに敏感なメスは、冷淡でよそよそしいメスよりも多くの子孫を残した。子どもが寒かったり、お腹をすかせていたり、危険にさらされていたりしたときに、母親は即座に反応する必要がある。この感受性には途方もなく大きな淘汰圧がかかったに違いない。それに対応できなかったメスは、遺伝子を広められなかった。

 
さらに、共感には性差があるといいます。とくに大人の場合では、男性よりも女性の方が共感力は強いようです。ただ、年齢が上るにつれて、男女の差は小さくなるようです。
 
 

■共感のスイッチ

そして、共感にはどうやらオン・オフのスイッチがあるようです。
 

どの感情的反応とも同じで、共感には「入口」、つまり、たいてい共感を引き起こしたり、私たちが共感を引き起こすのを許したりする状況がある。共感の最大の入口は同一化だ。私たちは自分が同一化したい相手の気持ちなら、分かち合う気になる。だから、内輪の人間とは心を通い合わせやすい。彼等に対しては、入口がいつも半開きになっているのだ。輪の外に対しては選択的になる。影響を受ける余裕があるか、あるいは、影響を受けたいと思うかにかかってくる。

 
なるほど。
 

男性のほうが女性よりも縄張りにこだわるし、全体的に対立的・暴力的なので、より効率的なオフのスイッチを持っていることが予想される。男性も共感する能力を明らかに持っているが、使い方が女性より選択的なのかもしれない。

 
なんか、スゴク納得です。
 

高度に発達した知性を使わなければ、そのような規模で個人の利益と集団の利益のバランスをとる方法は見い出せない。だが、私たちが使える道具が一つあり、それは私たちの思考を大いに豊かにしてくれる。長い歳月の間に選択されたもので、それはつまり、生存する上でそれが持つ価値が幾度となく試されてきたということだ。その道具とは、他者とつながりを持ち、他者を理解し、相手の立場に立つ能力で、これこそ、アメリカの人々がカトリーナーの犠牲者を見ているときに、また、リンカーンが鎖につながれた奴隷たちを目の当たりにしたときに使った能力だった。この生まれながらの能力を活かせば、どんな社会も必ずやその恩恵に与るだろう。

 
社会的知性の一つといわれる「共感力」は生まれながらの本能です。誰もが持っていて、強弱はあるかもしれませんが使うことができる力です。世知辛い時代だからこそ、共感する力は必須で価値ある力なんじゃないかと思います。