先日、茂木健一郎さんの『クオリア立国論』出版講演会に参加してきました。
- 作者: 茂木健一郎
- 出版社/メーカー: ウェッジ
- 発売日: 2008/12/01
- メディア: 単行本
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茂木さんはクオリアを解明することがライフワークとなっていると言われていて、かれこれ15年くらいになるそうです。
この講演会のことは茂木さんのブログでもちょっと書かれております。
クオリアは、私たちの生命活動の有機的組成と関連して立ち上がってくるものであり、だからこそインターネット上にもないし、断片的な知識の積み重ねの中にもない。
なんとなくわかるようなわからないような。講演会では「クオリアとは」が一貫したテーマとして話されていて、いろんな実例を通してクオリアのことを説明されていました。
その中のひとつに安藤忠雄さんの勉強例を通して言われていた部分がありました。
安藤忠雄さんは、独学で建築家になった。学校に行っていない。独学はすごく難し。だからみんな学校へ行かせる。独学だと変なカタチになってしまう。ただ、安藤忠雄さんは京大生が学んでいる教科書を教えてもらって、それを自分で読んで猛勉強した。体系性があるものになった。独学は体系性がない。ネット上も同様に体系性がない。断片情報があるのみ。
ここにすごくピンときました。断片情報をつなぎ合わせたり組み立てても、それはどこかいびつな形となっていて、有機的に繋がっていない。そこに生命感や躍動感といったクオリアを感じ取ることはできないですね。断片ではなく体系性に「美」があるのでしょうね。部分ではなく全体。部分が完璧ではなくとも全体感が完璧を想起させる。
こういう全体感ってデジタル化できない気がします。つまりコンピューターにはできないってことです。分解するには情報量が大きすぎます。それを瞬時に処理する人間の脳はスーパーハイスペックマシンです。たぶん、凄すぎてうまく活用できていないのだとおもいます。デジタル情報は「0」と「1」に分解できます。分解したときに何かが欠落しているか、捨てている気がします。一方でアナログ情報は分解できません。つなげるというか全部一まとまりとして処理しているのでしょう(フォトリーディングはまさにコレ)。このあたりを上手く活かせればヒトの学習速度や記憶、創造力がもっと伸びるような期待感があります。
もっとクオリアを大事に育てていきたいところです。