思ったことを「メモ」にとっておく

主に読んだ本の備忘録として「本の抜き書き」と「思ったこと」を書きつづり、さらに本以外のことでも「メモしたこと」、「考えたこと」についてつづっているブログ

WEBエンジニアへの第1歩:HTML+JavaScript(なんちゃってSEでした12)@人生の棚卸し

 

2回目の転職で、やっとWEB系エンジニアの仕事に就けた。ボクにとっては3社目となる会社で、Javaでのプログラミング研修が行われた。一応、プログラミング経験はゼロではなかったので、Javaの研修は2週間ぐらいで終了した。ここまでが前回の書いたことだ。

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Java研修の次は「WEBサイト制作」研修

 

Javaのプログラミング研修が終わり、その次に言われたのが、HTML+cssJavaScriptの研修だった。

 

そこでは、「HTMLとJavaScript」を使ったコーディングが作業の大半を占めていたからだ。ボクが入社したときは全員がその仕事を難しそうにやっていた。楽々やっている感はまったくなかった。

 

それでも、言われたときは、プログラミングというよりも「ホームページ制作か。それなら簡単じゃん」と思い込んでいた。

 

なぜなら、20年ほど前のサイトの大半はテキストベースで画像がちょこっとあるのサイトが多く、ときどき、JavaScriptを使って動きのある風のサイトもあったりした。

 

ボクも当時、自分の「ホームページ」をHTMLとJavaScriptを少々使って作っていたので、そんなもんだろうと思い込んでいたからだ。

 

 

■みたことのないWEBページ

 

実際にその研修がはじまると、それが大きな誤りであることがすぐに気づいた。

 

研修の課題は、あるWEBページを作成するもので、すでにWEBページの基本雛形があって、その雛形ページをオーダー通りにカスタマイズしていくという内容だった。

 

そのWEBページは画面上に地図があり、地図にはカメラアイコンが置いてあって、それをクリックすると、そのカメラの画像が画面の一部に表示されるというものだった。さらにこのアイコンのカメラを実際に左右上下に制御できるというのだ。

 

こんなサイトは、それを閲覧するパソコン側にも負荷がかかるし、画像が見えるとなると、ネット回線も太くないと難しいだろうと思った。まだ当時は、ISDN回線の128kbpsが最速だったと思う(今は携帯でも5Mbpsぐらいあるので、携帯ですら、当時の最速ネット環境よりも40倍近く速くなっている)。

 

 

 

■WEBページの構造・仕組みを知る

 

この研修を担当してくれたのは同い歳の方だった。ここではKさんとしておく。Kさんから言われたのは、「この雛形ページの構造を自分なりに調べて、どこをどう変えればいいのかを理解するということ。コードをトレースしてみて」だった。

 

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Photo by Hal Gatewood on Unsplash

 

ボクはさっそく、HTMLを見たのだが、最上位のHTMLファイルは10行程度しか書いていない。よくみたら、他のHTMLファイルをそのファイルが読み込んでいた。

 

その読み込んでいるHTMLファイルの中身をみると、そのファイルも100行程度もかいてなくて、シンプルなものだった。

 

ただ、そのファイルの中で、JavaScripiファイルをかなり多く読み込んでいた。そのJavaScriptファイルを開いてみてみると、数十行のものから数百行になるものもあった。

 

これを解析するのか……。

一番最初の会社でのCOBOL案件のときのことを思い起こした。

 

ともかく、自分がこれまで触れてきた個人のホームページレベルとは雲泥の差があった。ボクがそのときわかっただけでも、WEBページの構造が3~4階層化されていて、ほぼJavaScriptだけで動いているようなものだった。

 

 

■やはり、まずは要件定義書、システム設計書

 

ともかく、まずは、このWEBサイトの要件定義やシステム設計を知らなければと思い、その資料を見せてもらった。

 

ボクにとっては見たことのない驚愕のWEBシステムだった。構造がめっちゃ重層的だけど、考え方はシンプル。

 

要件定義に書かれていた、使用環境はインターネットではなく「イントラネット」で回線は高速専用回線。利用できるパソコンのスペックがかなり高め。そして、またしても官庁系の案件であった。

 

そして、よく見ると、一部Javaアプリケーションが使われていた。サーバー側にも、クライアント側(PC側)にもJavaアプリケーションが使われているのだ。

 

どうやら、そのJavaアプリケーションでカメラの制御や、映像の制御をしているようだった。特にJavaのプログラムを書き換えたりすることはなく、ただ部品として使用されていた。

 

 

JavaScriptオブジェクト指向

 

さらに驚いたのは、クライアント側、つまりパソコンパソコン側に表示されるWEBページの作りだった。詳細は省くけど、JavaScriptをまるでJavaの如く使っているのだ。

 

JavaScriptスクリプト言語で軽い感じで使われるものだと思っていた。でもしっかり階層化されていて、あとでわかったことだが、プログラミングがオブジェクト指向のように記述されていたのだ。

 

当時、JavaScriptの技術書はいろいろあったけど、こういった使い方を書いている本はボクの知る限りなかった。ただ、オライリーの『JavaScript』(サイ本)にはオブジェクト指向としても使えるようなことを書いているのをみかけたぐらい。興味のある方はどうぞ。

JavaScript 第6版

JavaScript 第6版

 

 

いまでは、こんな素晴らしいサイトがある。あの当時に出会いたかった。

developer.mozilla.org

 

 

■どこの誰がつくったのか?

 

こんなものを誰が考えてつくったのだろう???って思ってKさんに聞いてみたら、これはこのシステムの製造元であるT社であった。こういったシステムをゼロから作り上げる人って、どんな人なんだろう……。

 

そのT社から資材として提供されたものを、オーダーごとにカスタイズしてつくって、T社に納品するのがメインの仕事であることもわかった。

 

さらに、この研修用でやっていたオーダーが実は実際の案件で、ボクが担当する初案件でもあった。終わるのに1か月ぐらいかかっただろうか。途中、高度の抽象化されたつくりを理解できなくて、心が折れそうになったが、Kさんたちのお導きもあって、最終的には終えることができた。

 

 

■この研修で得たこと

 

これをきっけけに、WEBサービスの仕組みそのものや、HTML、CSSJavaScriptの使い方。そして、JavaScriptの奥深さをしった。WEBページの設計の仕方でいろんなことがWEBでは可能になることもよくわかった。

 

ますます、これからWEBの可能性はもっと広がり、それに備えてもっともっと勉強して技術を磨いていこうと思った。

 

まずは、この会社で、WEBの基本的なことを徹底気に学びつくすことを心に強く決めた。

  

WEBエンジニアになった方法:Java研修(なんちゃってSEでした11)@人生の棚卸し

 

PCインストラクターの仕事がなくなり、営業の仕事をすることになって、2度目の転職を決めたボクは、最初の転職同様に新聞の「折込求人広告」から次の会社を見つ出し、何社か面接を受けて採用されることとなった。

 

そして環境は抜群に良かったけど、自分の今後のキャリアのことを考えてその会社を退職した。ここまでが前回の記事で書いたことだ。

 

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■退職した翌日に新しい会社へ出社

 

今回の転職は有休消化は一切なく、月替わりでの転職となった。

 

 

朝、いつものようにへ行き、昨日まで乗っていた電車とは反対方向の電車に乗る。都心へ向かうので、やはり混んでいる。ただ、4駅目で下車するので、通勤自体は苦ではない。下車した駅から歩いて10分。会社に到着。

 

 

ボクの会社員人生の中では3社目となる会社の従業員は10名にも満たない小さな会社だった。社長もまだ40代ほどで従業員は20代、30代が中心。人数は社長も含めて6人の小さな会社だ。

 

 

しかもそのうちの半分は女性。システム開発の職場って男性が多いので、かなり驚いた。社長を除けば、女性の方が多くなる。それが理由かどうかわからないが、ギスギス感は無かった。どうやら今度も職場環境は良さそうだ。

 

 

また、これまでとは異なり9時出社ではなく10時出社というのも魅力的だ。10時出社の19時退社だそうだ。9時出社18時退社でもいいらしい。どちからを日によって選べるフレックス制だった。

 

 

残業代も、賞与もきちんと出ることに感動した(笑)。基本的に休日出勤も残業もあまりないらしい。ただ納期が近くなる繁忙期のときは、土日出勤も残業もあるそうだ。しかも広範囲な出張もあるという。

 

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Photo by Christopher Gower on Unsplash

 

 

Java研修開始

 

1か月ほどの研修期間があり、半分の2週間は社長担当の研修で、Java基本研修だった。これはJavaの入門書を1冊買わされて、その入門書をみながら、実際にパソコンでプログラムを書いて動かしてみるものだ。

 

実際に使っていたのがコレ。

やさしいJava 第7版 (「やさしい」シリーズ)

やさしいJava 第7版 (「やさしい」シリーズ)

  • 作者:高橋 麻奈
  • 発売日: 2019/01/22
  • メディア: 単行本
 

20年たった今でも第7版として売っているから多くの人が使っている本なんだろうなぁ。 ボクが使っていたのは初版か2版だった。

 

 

この本はタイトルにもあるように「Java入門」という内容のものだったので、そんなに難しくなかった。ただ、Javaプログラムを動かす環境を自分のパソコンに構築する方が大変だったかな。

 

 

ちなみに、Javaオブジェクト指向が可能なプログラミングだけど、この本では、そこまで習得できる感じではなかった*1

 

 

なので、研修では、「オブジェクト指向」のことは全く学べず、従来通りの「手続き型プログラム」でJavaでプログラムを書くことを学んだ。

 

 

社長研修といっても、社長はただ、ボクがどこまでやっているかの進捗を管理しているだけで、基本は自学自習。わからないことは社長に聞くということなのだが、実際は、他の先輩たちに聞いたりしていた。

 

 

一応プログラム経験者ではあったので、この本の内容はすぐに終わった。次の研修は、WEBサイトを作る研修だった。

  

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*1:同じ著者がJava言語でのオブジェクト指向開発の本も出している。『やさしいJava オブジェクト指向編』

ITエンジニアへ転職するには?(なんちゃってSE復帰10)@人生の棚卸し

 

21世紀最初の年、2001年。

ボクは2回目の転職の渦中にいた。

 

ボクはそのとき、転職した2社目に在籍していて、通勤環境、人間関係も最高に恵まれ、過敏性腸症候群IBS)の症状もほぼなくなっていた。

 

ただ、当初はPCインストラクターの仕事だったはずが、その仕事はなくなり、システム開発部に異動願いをした。結果的に営業部に異動となり、ボクの意には合わない仕事をすることになり、モヤモヤした気分であった。

 

そして、このままでは自分のキャリアを主体的につくることはできないと思い、再びITエンジニア分野の仕事ができる会社へ転職をしようかと決めた。ここまでが前回の記事で記したことだ。 

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■再び転職先を探す

 

やはり、ボクがそのとき自分のキャリアとし作り上げていきたかったのが、ITエンジニアとしてのキャリアだった。だから、営業部で営業の仕事をすることに魅力もなければ、好きにも得意にもなれなかった。

 

ここの会社に転職してちょうど1年。このままでは無駄に時間を過ごしてしまうという焦りもあり、再び転職することを決めた。

 

 

 

■新聞の「折込求人広告」から探す

 

前回転職したときと同様に、自宅から近場、つまり通勤30分ぐらいのところで行ける会社に転職をするためにも、新聞の「折込求人広告」でシステム開発の求人募集を探した。

 

そのころは、業界的にも人手不足だったのか、1枚の「折込求人広告」に2~3件はシステム開発の求人が掲載されいてた。「未経験歓迎」という求人もあったから、とにかく当時のあの業界は慢性的な人手不足だったのだろう。

 

未経験でも手っ取り早く、ITエンジニアの仕事をしたければ、最初は地獄のような大変さを味わう可能性もあるが、とにかく、どこかへ入って現実を身をもって知り、実績を作ることが大事だ。

 

リクナビとかの有名転職サイトなど使わなくても、ハローワークや、地域密着型の求人サイトもあるので、そういうところの方がより現実的にITの仕事につける可能性は高くなる。ブラックの可能性もあるが、業界未経験であるならば、それぐらいの覚悟は必要だと思う。

 

 

■こんな会社に入りたい

 

ボクが考えていたキャリアは、とても単純だった。それは、プログラミング経験を積めて、システム設計ができるようなシステムエンジニアとなり、ゆくゆくはプロジェクトマネジャになりプロジェクトマネジメントをできるようになりたいなぁ、、、と考えていた。

 

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Image by Gerd Altmann from Pixabay

 

だから、まず第一に「プログラミング経験を積める」ことが必須条件だ。そして、プログラムといってもCOBOLC言語といったレガシ―な言語ではなく、JavaC++といったった当時流行っていた言語での経験を積めるところを希望していた。

 

 

■採用面接を受ける

 

さっそく、その条件に該当する会社を探した。全部で4社に電話して、1社は電話の時点で、C++の経験がないとNGということで面接まで至らず。残りの3社は面接を受けさせてもらえた。

 

A社:Javaの経験必須。Javaの勉強経験でも可。職場は自宅から電車を使って30分ほど。月給は22万から。従業員200名くらい。

 

B社:プログラミング経験が少しでもあれよい。Javaの案件は少ししかないが、COBOL案件が多い。通勤時間は電車で40分ほど。月給は23万から。従業員50名ほど。

 

C社:Javaではなく、HTMLとJavaScriptを使う。WEBサイトの構築がメイン。ただ、研修ではJava言語を使う。通勤時間は電車・徒歩で30分以内。月給は20万から。従業員10名もいない。

 

 

■採用面接の結果

 

A社:Javaの経験があるといいが、COBOLのプログラミング経験も乏しいということ結果的にNG。

 

B社:プログラミング経験が少しでもあれよい。ただ、COBOLがわかるのであれば、COBOL案件があるので、まずはCOBOL案件からはじめるということで採用となった。

 

C社:Javaではなく、HTMLとJavaScriptなんだけど、プログラムの基本はどの言語も同じだからってことで、COBOL経験しかないけど採用となった。

 

ということで、B社、C社から採用通知を頂いた。どちらにしようか迷ったが、やはりCOBOLは避けて、次の言語へ進みたいという点を考えて、C社に決めた。

 

 

■そして、退職へ

 

次の会社はC社に決めたので、さっそく、社長に退職することを伝えた。割とあっさりと受理された。そのとき社長から「お前はプログラムは向いていないけどな」と言われ、なんだか嫌な気分になったのを覚えている。

 

採用が決まったC社の社長には、勤務している会社の退職するまで待ってもらい、翌月からの採用ということでお願いした。

 

そのときいた会社は、通勤環境が良く、職場の同僚、上司にも恵まれていたので、それが無くなってしまうのは残念であった。

 

しかし、当時はボクもまだ20代半ば。前へ前へと進もうとする気持ちとエネルギーが満ちていたのもあって、より自分の思い描くキャリアが実現できることろへ行くことは正しい選択と考えていたので、後悔は全くなかった。

 

後ろは振り返らず、システムエンジニアの道を猛然と前進あるのみ!

 

毎朝、都心とは反対方向へ行く電車に乗る喜び(もはやSEではない9)@人生の棚卸し

 

 

JR中央線で新宿・東京方面へ向かう電車は平日、土日祝日ともに混んでいる。特に平日朝の電車は殺人的な混みようだ。そこにさらに過敏性腸症候群IBS)の症状が出てきて、数回の途中下車でトイレにかけこみ、場合によってはトイレ行列待ち。あれはほんとしんどかった。

 

そして、転職を決意し、そんな当時のボクにはピッタリそうな職場を見つけ無事転職できた。そこまでのことを前回の記事で記した。 

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 ■人生初の3週間越えの休暇

 

会社を辞める際に、3週間ほどの有休をすべて使うことにした。1週間以上休むこと自体が、学生以来だった。

 

朝起きて電車に乗らなくていいというのは、本当に心がラクで嬉しかった。案の定、IBS過敏性腸症候群)の症状はほぼ出ない。ボクのカラダは驚くほど、素直なのだなぁと思った。

 

平日の午前中は本を読んでのんびりと過ごし、午後から自転車に乗って近所市内を走ったり、映画館へいって空いている館内で映画を観てたのしんだ。平日ずっとお休みしている罪悪感にた感覚もあったりしたが、それ以上に解放感が大きかった。

 

しかし、不思議なもので、2週間も休んで自由きままな生活をしていると、それに飽きてきて、仕事欲のようなものがメラメラと沸き上がってきた。

 

おそらくは、ストレスから解放され、エネルギーが充足したので、今度はエネルギーを消費したくなってきたのかもしれない。最後の1週間は、次のPCインストラクターの仕事のため、ExcelやWordといったOfiice製品ソフトの本を読んだり、特に使う用途はなかったけど、英語を勉強してみたりしていた。

 

 

 

■そして、いよいよ初出社

 

有休消化も終わって、月が変わり、転職する会社への初出社の日となった。

 

朝はこれまでは7時直前ぐらいの電車に乗っていたのが、これからは8時半以降の電車に乗ることとなった。朝、1時間半も余裕があると、睡眠時間も増えて、食事もゆっくりできる。

 

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さらに、乗っている電車は都心方向とは逆方向に進むので、基本的に混んでいない。座れる席があるか、ないかぐらいな状態だった。電車に乗っている時間も20分弱。これまでとは雲泥の差である。30分もあれば十分間に合うのだ。

 

これが幸いしてなのか、IBSの症状が皆無ではないが、ほぼ出ない。これは衝撃的な喜びだった。無自覚に受けていたストレスが、心を潰すよりもずっと前に、カラダにダメージを与えていたということがよくわかった。

 

 

 

■新しい仕事

 

新しい職場に到着し、全体朝礼があり、そこで新入社員として紹介された。

 

実は、この転職した会社も中心業務はシステム開発を請け負ったり、自社でサービスを作って提供したり、インターネット接続サービスを行うプロバイダー業も行っていた。その一部にPC教室を運営しているのであった。

 

ボクが担当することとなっているPC教室は既に別の社員さんがインストラクターをされていて、ボクはその人から研修?のようなものを受けて、あとは任せたみたな感じで引き継いでやることとなった。

 

このPC教室にくる生徒さんは、この地域にある会社で、中小企業、個人商店といったところで働いている従業員さんや、経理、総務を担当されいる方や、社長さんが主なお客様であった。

 

当時はOSといえばWindous2000が使われ始めたころであった。とにかく、パソコンを触れたことのない、40代、50代、60代の人が主な受講生であったのだ。

 

朝9時から毎日パソコン教室を開いているわけではないので、そのほかの時間はインタネットプロバイダーの事務仕事や、会社の顧客からの様々なご要望にお応えるするということをやっていた。

 

例えば、パソコンの納品したり、調子をみたり、小さな会社の社内LANを構成して設置したり、なんだかパソコンなんでも屋みたいな感じのことをしていた。

 

こういった業務は、これまで経験したことはなかったけど、前の会社でのプログラミングや、テスト計画書の作成といったことからすれば、実際のところ難しくはなかった。

 

ただ、別次元の未経験の難しさはあった。それは人との交流だ。お客様の中には、80代の方もいたので、マウスとかキーボードといった言葉が通じなくて本当に参った。なんとか話しを通しても、次の時にはすっかり忘れてしまっているとか。

 

 

 

システム開発部メンバーと仲良くなる

 

別のフロアに、システム開発部があり、お昼時になると、そのメンバーの一部と一緒にお昼ご飯を食べるようになった。次第に開発部のメンバーと仲良くなり、休日もみんなで一緒にディズニーランドや、今はなき「としまえん」、富士急ハイランドへ遊びに行ったりしたものだ。

 

他にも、野球をやったり、美味しいものをテーマを決めて食べていったり、夜、流星群をみにいったり、川原でBBQをするような活動もあった。前の会社と比べると、休日の人間関係の使い方は大違いであった。ともかく、仕事もそうでないときも楽しく過ごせていた。

 

 

■年収<激減>問題

 

このように、心も人間らしく豊かになり転職して本当に良かった。

 

しかし、ただ、前と比べると給料がめちゃくちゃ下がった。年収にして200万近く下がったのだ。面接時にそのことはわかっていたので、それは覚悟の上であり、自分の健康とトレードオフなのかなと思いながら、そこは納得していた。

 

 

■体調良くなり、再びシステム開発の仕事をしたくなる

 

 ともかく、この会社に勤めるようになってから、ボクの体調はすっかり良くなった。環境を変えるだけでこんなにも大きく変わるものなのかと、強く思わされた。

 

次第に、仕事で成果を出したくなるというか、挑戦する意欲がでてきたのだ。その中で、開発部のメンバーとは仲が良かったので、彼らの話を聞けば聞くほど、ジワジワとプログラムを組んでみたくなったり、開発の仕事を再びやりたくなるような気持ちになっていった。

 

さらに、社長から、パソコン教室は利益が出にくいということで、いまいる受講生で終了にするということだった。そうすると、ボクがやる仕事が、本当にパソコン何でも屋になってしまう。

 

 

■社長に異動を要望してみた

 

 そこで、社長と部長に開発部へ異動できないかどうかをお願いしてみることにした。部長は前職の経験から推してくれたが、社長からはNGが出た。

 

その理由は使用言語がCOBOLしか触れたことがないのと、前の会社でテスト設計はやっていたけど、プログラムを組んだ経験がほぼない、というのが理由だ。

  

 

■結果的に「営業部」へ異動

 

システム開発部への異動のお願いをしたあと、社長から、ボクを「営業部に異動させる」という話ができてた。

 

この会社に入ったのはPC教室でインストラクターができると思ったからだ。それが、結果的にできなくなり、営業メインの仕事をすりようになるというのだ。転職した意味が半分ほど変わってきてしまう。

 

それでも、営業部への異動は避けようがなかったので、受け入れるしかなかった。仕事内容もさらに変わり、営業活動の仕事をするようになった。この仕事がそのときのボクには合わなかった。もはや、リハビリはここまでか、と思った。

 

 

■再び、次の道を考えるようになる

 

ということは、ボクがこの会社でプログラミング経験を積むことは、かなり難しいということが見えてきたので、そこの会社に入社してまだ1年ぐらいしか経っていないのだが、再び、ボクは新聞「折込求人広告」をみるようになっていた。

 

正直、社長以外との人間関係はかなり良かったのと、通勤がラクだったので、その人間関係の抜群に良い環境を変えることのためらいも大きかった。

 

とはいえ、自分の今後のキャリアを考えると、やはりエンジニアとして仕事をしていきたかった。もう一度、IT分野でエンジニアの仕事をしようと決めた。

 

ミレニアム年が終わり、21世紀の初年の夏の終わり頃のことだ。

 

 

長くなったので<続く>

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初めての転職活動(なんちゃってSEでした8)@人生の棚卸し

 

以前の記事で書いたことだが、ボクはシステム開発の仕事をしていた。勤務していた職場はなかなかハードなところで、平均すると月250~300時間働いていた。

 

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通勤はdoor-to-doorで片道1時間半ほど。その大半は電車・地下鉄に乗っていた。9時出社なので、7時半前には家を出て電車に飛び乗る生活が続いていいた。

 

しばらくして、ボクはIBS過敏性腸症候群)らしき症状を発症した。胃腸科、心療内科を受診し、薬を服用されて、服用していたがほとんど良くならず。

 

自宅から職場まで1時間半で行ける場所だが、朝は出社するのに2時間余裕をみていた。なぜなら、家を出たときは問題なくても、電車に乗っている途中で腹痛と下痢がはじまるからだ。

 

特別快速には乗らず、各駅停車に乗って、1,2度途中下車してトイレへ駆け込む。そうすると2時間はかかってしまう。会社につくと、そんな症状はどこかへ消えてしまうのだ。

 

勤務するようになって1年半ほど経ってから、こんなふうになった。上司や社長にも相談したが、「もうちょっと頑張ってくれ」と言われ、それがずるずると続き、いよいよ、会社をやめるしかないかなと思うようになった。

 

20年ほど前のことなので、このIBS症状は周りに理解されにくく、ボク自身も謎の症状に困っていた。お医者さんからは仕事によるストレスと言われていたので、それは自覚があった。

 

 

■転職サイトに登録

いきなり辞めるような無謀なことはもちろんしない。まだギリ20代前半であったので、IT系の転職サイトに登録していろいろな会社を探した。

 

しかし、求人のあるIT系の会社はことごとく、23区内で新宿などの山の手線内側にあった。それでも、今よりマシかなーと思いつつも、朝の地獄のような通勤が大きく変わることはないと思い、暗澹たる気持ちになった。

 

 

■なかなか転職先が見つからない

23区外や近隣県まで探すが、なかなか思うようにみつからない。そこで、求人広告に勤務していた先輩に相談すると、「地元近辺で会社を探したいのなら、新聞と一緒に配布される「折込求人広告」やハローワークだよ」と、勧められた。

 

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Photo by Ben White on Unsplash

 

■新聞の「折込求人広告」

平日は会社に普通に朝から夜遅くまでいたので、平日のハローワークはいけない。手軽なのは新聞の「折込求人広告」だ。土日の新聞に挟んでいることが多かった。

 

新聞の「折込求人広告」ってバイトの募集だけなのかと思い込んでいたけど、地元の会社での求人が多く、パートも正社員も両方扱われていて、思っていた以上に正社員の募集があったのだ。

 

 

■転職先をみつける!

それから、「折込求人広告」をそうして探していると、システム開発の仕事ではないが、「PCインストラクター募集」の文字が目にとまった。

 

うーん、システム開発の仕事ではないけど、まあ、使い慣れたパソコンを使う仕事ではわるから、リハビリとしてもいいかしれない・・・・。

 

そんなことも思いながら、キャリアチェンジになるのかな?と思いつつ、そこの会社に電話してみることにした。

 

話をきけば、すぐに面接が可能とのことなので、翌週なら伺えると伝えて、採用面接の応募した。

 

 

■面接

その会社は、場所はこれまでの都内とはまったく逆方向にあり、電車で30分もかからないところだ。会社は最寄り駅からも近い。

 

さっそく、会社は半休をとって、面接に行った。電車に乗って気づいたのは、その会社の方向が都心とは逆方向だからかのか、空いているのだ。ところどころ座れそうなぐらいの空き具合なのだ。

 

これは期待してしまう。この会社に採用されたら、通勤がこんなにラクになるのかと。

 

面接は部長面接1回で終わり。これまでの経歴やできることなどいろいろ聞かれたりした。そのときに、業務内容がPC教室のインストラクターだけではなく、インターネットプロバイダー業務や、顧客のシステムサポートなどがあるときいた。

 

正直、どの業務もまったくの未経験だったけど、内容的にはイケるだろうと思い、「御社で働かせて頂きたい」と伝えた。

 

 

■採用決定

翌週、ボクの携帯電話に、アドレス登録していない番号から電話があった。出てみると、その部長の携帯電話からの「採用通知」の電話であった! 

 

勤務開始は、今の職場での後処理もあるので、翌月からということにして頂いた。

 

とにかく、無事、次の仕事が決まったことに安堵した。それと同時に今の会社に、「辞める」ことを伝えなければならない。

 

体調不良のため辞めたいということ社長に伝えた。体調のことも心配して頂き、途中で戦線離脱することを申し訳なく思った。

 

ただ、システム開発のフェーズが変わるときでもあったので、タイミングよくその月で辞めることができた。しかも、3週間ほどの有給休暇があったので、全て使うことにした。

 

2000年のまだ夏の暑さが残る頃のことであった。

 

<続く>

美味しい「きなこ餅」を家で手軽に食べる方法@「とろけるきなこ」

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ボクは「きな粉餅」に目がありません。お店とかで「きな粉餅」って言葉を目にすると、とにかく買って食べたくなります。

 

 

「きな粉餅」LOVEなんです!!

 

 

子どもの頃から、「餅」といえば、「きな粉餅」です。お汁粉の餅も割と好きですが、断トツで「きな粉餅」ですね。

 

 

餅は真空パックで手軽に食べることができるけど、「きな粉」はプレーンの「きな粉」を買ってきて、それに塩少々と砂糖をそれなりに入れて作る必要があります。絶妙な塩と砂糖の割合で美味しい「きな粉」ができあがります。

 

 

毎日、餅を食べるのではないので、そうやって作った「味付きな粉」はそんなに大量には必要ありませんし、その味の「きな粉」を作るのがボク的には手間でもあります。そもそも料理は苦手で、ボクはほぼやりません。料理は奥さんまかせです。

 

 

先月、近所のスーパーで買い物をしていたとき、「きな粉餅」たべたいなぁ、、、って思って陳列されている「きな粉」をみながら、やっぱり味付けのきな粉はないか・・・と思っていたところ、1つだけ味が付いている「きな粉」がありました!

 

 

それが「とろけるきなこ」です。

 

 

真誠 とろけるきなこ 80g×4個

真誠 とろけるきなこ 80g×4個

  • メディア: 食品&飲料
 

 

 

くちどけ ほのかな甘み

 

黒糖

 

 

このキーワードに惹かれて手にとってみました。

 

 

他には、味付けのきな粉は見当たらなかったので、これだけを選んで購入。

自宅に戻って、さっそく餅に「きな粉」をふりかけて食べてみました。

 

 

味は、

 

 

ほどよい甘さで

 

触感はふんわりしていて舌にすぐ馴染んで、

 

 

きな粉の美味しさが、すぐに伝わってきます。

 

 

これは、

かなり、いいものを見つけてしまいました!!!

 

 

白ご飯に「ゆかり」

 

餅に「とろけるきなこ」

 

 

もうこれは常備して欠かせることができなくなりそうです。というか、もうそうなっています。

 

 

1袋80gで、賞味期限も割と長いので、1~2人暮らしの方にもちょうどよい分量です。

 

 

 「きな粉」好きの方にも、そうでない方にも手軽に食べれるのでおススメです。

 

 

真誠 とろけるきなこ 80g×4個

真誠 とろけるきなこ 80g×4個

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帰ってきたらいつもの部屋と何か違う!?初の空き巣被害@学生時代のできごと

 

今から二十数年前、あのアパートに住んで3年目の夏から秋にさしかかる頃だった。

 

 

学校からアパートに昼過ぎぐらいに帰ってきた。そして、部屋の鍵を開けて入ると、なんとなく違和感をおぼえた。

 

 

紅茶葉が入っている缶の周りに、紅茶の葉がこぼれて出ているのだ。そもそも朝、紅茶を飲んでいないから、紅茶葉が缶から出てこぼれていることに、記憶の整合性が一致しないのだ。

 

 

違和感はそれだけではない。ノートパソコンの位置が、朝、置いていた場所から異なったところにある。。。

 

 

まさか、誰かに入られたか???

 

 

ドアの鍵は締まっていたし、ベランダ窓もしっかりしまっている。

 

 

ただ、一か所だけ開けているところがあった。

 

 

それは、お風呂場の窓だ。

 

 

大家さんから、

 

 

「シャワーを使ったり、お風呂を入った後は、換気扇がついていないから、必ず窓を開けて換気するように」

 

 

と言われていた。

 

 

だから、日常的にお風呂場の窓は少しだけ開けた状態にしていた。その窓は玄関通路側にあるにも関わらず、鉄格子のようなものは一切ついていない。

 

ただ、窓そのものは小さいので、そこから入るという発想はないが、頑張れば出入り可能な窓の大きさだった。

 

 

家を空けるときには、そこの窓を閉めていくようにしていたのだが、、、、

 

 

あるとき、朝、起きたら、猫がボクの目の前で寝ていた。

 

 

どっから入ってきたのか? もちろん、少し開けていたお風呂場の窓からだ。

 

 

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Image by Peter Chou from Pixabay

 

 

その猫は勝ってに入ってきて、しらないうちに出ていってしまう。猫を飼う気はなかったので、エサなども一切与えたりもしなかったが、追い出しもしなかった。その猫はそこから適当に入ってきては、出ていったりしていた。

 

 

猫の好き勝手にさせておいたので、猫がいつ出ていくかもわからないので、お風呂場の窓を猫が出れる程度、開けておくようになったのだ。

 

 

そんなことがあったので、最初は猫が入ってきていたずらでもしたのか???とも思った。

 

 

しかし、まさか猫がパソコンを移動できるはずもないし、紅茶の缶を簡単に開けれるはずもない。

 

 

これはもしかして、、、、、

 

 

それで、アパートの外側を確認しようと思っていて、部屋の外に出たら、隣の別のアパートの住人の「おっさん」が、うちのアパートの周りを何かを探すようにウロウロしている。

 

 

ちょうどおっさんと目があって、

 

 

「やられた!なんか家に入られたみたいだ。現金やられたわ」

 

 

「あ、ボクのところもやられたかも知れません。ただ、現金は置いてないし、金目の物もほとんどないので、何も取られてないようです」

 

 

「うちは10万円もってかれたよ」 

 

 

「これ、警察呼んだ方がいいですよね」

 

 

そういったら、おっさんは

 

 

「いいよ、もう。警察呼んだら、なんかめんどくさそう」

 

 

と言った。ボクもこれといって取られたものはなかったので、通報はしなかった。

 

 

そして、遅めの昼飯を食べてひと眠り。

 

 

夕方頃、アパートの周りがざわざわするのが聞こえて目が覚めた。

 

 

外へ出てみると、警察が何人も来ていて、あの隣のアパートのおっさんが何やら話しているのだ。

 

 

あれ? 結局、警察呼んでんじゃん!!

 

 

ボクもすぐに近くいた警察官に「泥棒のことですか?うちにも入られたようなんです」と話した。

 

 

そして、その警察官に「ボクが警察に通報しようとおっさんに言ったら、面倒だから通報しなくていいって言っていたのに、結局通報したんですね」と言ったら、「後から、10万円取られたことがむしゃくしゃしてきて、やっぱり通報する気になったみたいだよ」と説明を受けた。

 

 

しばらくしたら、鑑識(っぽい)人がやってきて、部屋の中には入いり、部屋を閉め切って暗くして、床に対して水平にしてデカイ懐中電灯みたいなものを照らした。

 

 

そうすると、

 

板張りの床に、足跡がくっきりと浮かんで見えた!

 

 

あまりにもはっきり見えて、そのときはじめて、見知らぬ誰かが勝手に家に侵入したんだと自覚した。

 

 

そして、夜になって、戸締りをしっかり確認して、寝ようとしたとき、本棚のところにおいてあった、未使用のハガキ・切手の袋がないことに気づいた。

 

 

あ、取られていたんだ・・・・

 

 

もしかしたら、あのおっさんも怪しいかな???

 

 

でもわざわざ自分から警察に通報するはずもないか・・・・

 

 

とりあえず、大家さんに報告したら、「戸締りぐらいちゃんとしなさい!!」と叱られてしまいました。

 

 

その後、警察からは何の連絡も一切なく、あの空き巣事件はどうなってしまったのやら。今も謎のまま。

 

 

空き巣は年々減っているようですが、危険な犯罪であることに変わりはありません。 みなさまも、一切の油断を排し、戸締りは厳重に!

 

大家さんに頼みごとをしたら・・・@学生時代

 

前回、大家さんとの出会いについて書きました。

strengths.hateblo.jp

 

そんな、大家さんと写真の1枚でも撮っておけばよかったのですが、一枚もありません。大家さんの姿はアタマの記憶の中にあるだけです。その記憶を頼りにネットで写真を探してみました。

 

 

とても、雰囲気が大家さんに似ている写真がありました!

 

 

これです!!

 

 

 

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Photo by Aris Sfakianakis on Unsplash

 

そうそう、こんな感じでした。

 

 

 

■東京の殺人的な暑さ

 

そんな大家さんとの独特な交流にも慣れて、季節は梅雨から夏へ。

 

 

ボクは北海道出身で、東京の夏の暑さには衝撃を受けていました。あの梅雨のジメジメ感。そして真夏の人間の体温と同じぐらいの最高気温。ボクにとって東京の暑さは未知なる体験でした。

 

 

北海道に住んでいたころは、夏といってもだいたい25~30度の間くらいで、真夏日になるのは通算で1週間あるかないか。湿度も東京ほど高くないので、扇風機があれば十分でエアコンは不要でした。

 

 

北海道出身のボクにとっては殺人的な暑さになる東京の夏の暑さをなんとかする必要がありました。なんといってもその部屋にはエアコンがなかった!

 

 

 

■大家さんへの頼み事

 

あるとき、近所の別の学生アパートの部屋には備え付けのエアコンがあるときいて、これは、大家さんに「エアコンを付けて!」と、お願いしてみようと思いました。

 

 

そして、大家さんがアパートに来ているときに、さっそく頼んでみました。

 

 

「ボクは北海道にずっと住んでいて東京の暑さはかなりきついです、他のアパートのようにエアコンつけてくれませんか?」

 

 

 

■エアコンがついた!

 

最初は、すこし渋られましたが、最終的に各部屋にエアコンをつけてくれたのです!

 

 

頼んでみるもんだなーって。大家さんと仲良くしていてよかったなーって思いましたね。

 

 

■大家さんの気遣い

 

また、実家の両親と電話で話していた時にわかったことなのですが、大家さんは、実家の両親の元に3ヵ月に一度ほど、ハガキで「息子さんの状況は・・・」と近況を知らせてくれていたそうなのです。

 

 

 

■ボクにもハガキが届くようになる

 

そんな大家さんから、ボク宛にハガキが届くようになりました。その内容は、エアコンの調子はどうかとか、夏バテしないように気を付けてとかといった内容でした。

 

 

そして、そのハガキの最後には

 

「アパートの住人全員に〇〇の事を伝えて」

 

と書いてあるのです。

 

 

まあ、エアコンもつけてもらったし、これぐらいやっておかなければと思って、全員に大家さんからの「ことづけ」を伝えました。

 

 

その後、何かある度に、大家さんからハガキが届き、ときには電話で直接頼まれるようになったのです。それを一人ひとりに伝えにいくのです。結構面倒なんですけどね。。。。

 

 

■アパートの管理人代理?

 

なんだか、気づいたらアパートの管理人代理みたいなことやってました。

 

新しく入ってきた住人は、ボクを大家さんの孫か何かと勘違いされていましたからね。

 

 

大家さんも、住んでいることろから、アパートのところまで来るのが大変になってきたのかもしれません。結構、高齢でしたから。実年齢は知りませんが。 

 

 

今じゃ、こんなことあり得ないと思いますが、ボクの中では大家さんとのいい思い出です。

 

 

決して忘れることのできない大家さん@学生時代

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Photo by MF Evelyn on Unsplash

 

25年以上前のことだが、ボクは一人暮らしをはじめた。大学1年次は寮に入ったので、実質一人暮らしではなかった。楽しかったが、プライベートが全くない集団生活であった。

 

 

■寮を出て

 

寮を出たあと、先輩が住んでいるアパートに2,3か月ほど住まわせてもらった。家賃と水道光熱費を折半するという条件で。完全な一人暮らしではなかったが、部屋が2部屋あったのと、寮で慣れていたので、とくに問題はないと思っていた。

 

そのアパートでの生活もなれて1週間ほどしたころだっただろうか。玄関のドアが激しくノックされる音が聞こえてきた。先輩はバイトか何かで不在だ。

 

ドンドンドン!!!

「◎◎くん!!いるんだよね!」

 

もう、これはとりあえず、出るしかないと思って、玄関ドアに向かった。 

 

 

■大家さんと初対面

 

ドアを開けると、そこには、推定年齢70代後半~80年代前半ぐらいのおばあちゃんが立っていた。なぜか、色の薄いサングラス?をかけていて、髪がぼさぼさした感じの白髪。

 

その見た目はボク的にかなりインパクトがあった。声も少しだみ声で口は早く、声は大きくはきはきと。コントかマンガとかに出てきそうなほど強烈な個性の持ち主だった。

 

そこのアパートの大家さんだった。

 

「あら!◎◎くんじゃないね。あんた誰?」

 

「いま、一緒に住んでいる後輩です」

 

「ここは定員1名用だから、勝手は困るよ」

 

そして出身地や大学での専攻やバイトは何をしているのか等の質問を矢継ぎ早にしてくるのです。そして、尋問されたのち、そのまま住み続けることを許可して頂いたのです。

 

先輩がバイトから戻ってきて、大家さんのことを話したら、その大家さんのことを少しばかり教えてもらいました。

 

 

■大家さんは時々やってきて住人の様子をみにくる

 

大家さんはアパートがあるところとは別の都市に住まわれていて、月に何度かアパートの様子をみにきたりするのです。そのとき大家さんはそのアパートとは別の建物に寝泊まりされているようでした。

 

先輩が言うには、「おせっかい焼きのいい大家さんだよ」と。

 

 

■学生にごちそうを振る舞う大家さん

 

実際、大家さんが来訪中、夕食時のときとか、そのときアパートにいる学生たちに声をかけて、大家さんの「部屋」で夕食をみんなで御馳走になったり。

 

残念ながら、ボクは行くタイミングを逃してばかりで、食事にはなかなかありつけませんでした。

 

 

■1部屋空いた!

 

そのアパートは2階建6室、(おそらく)築40年以上のアパートでした。お風呂あり、トイレは和式。エアコンはついてなかったけど、変わった間取りで4畳、3畳の2部屋ありました。

 

先輩と一緒に住んで2、3か月。ちょうど1階の角部屋が空いたという話をきいたので、大家さんに話して、その部屋を貸してもらえるように頼みました。

 

 

■やっと初の一人暮らし

 

すぐに承諾を得て、先輩のところを出て本格的に一人暮らしをするようになったのです。

 

不動産屋を通さなかったためか、部屋のリフォームなどはなく、ただ掃除されただけでした。

 

お風呂場を見ると、広さは全体で1畳もなく、ほぼ正方形の浴槽があるのですが、前の方の使い方が酷かったようで、中が妙に汚くて洗ってもキレイになりません。だから、浴槽にお湯をためることはほとんどなく、シャワー専用で使うはめになりました。

 

そででも完全なる一人暮らしは解放的で楽しかったですね。 

 

引っ越しといっても、荷物がもともとほとんどなかったし、しかも先輩の部屋の隣の隣。モノと運ぶコストはほとんどかかりません。 

 

 

■大家さんからの独特すぎる差し入れ

 

大家さんは普段はいないのですが、とつぜん、アパートにやってきて、1週間ほど滞在されるのです。

 

ボクは1階の角部屋に住んでいて、すぐ外へ出れるバルコニーがありました。バルコニーの外側のすぐそばに洗濯機を置ける場所があって、そこに洗濯機を置いていました。

 

ある日の朝。

 

バルコニーの窓を「ガンガン」叩く音がするのです。

 

 

「いるんでしょ!コーヒー置いとくからね!」

 

 

ボクがいるかどうかも確認せず、いきなり洗濯機の上にコーヒーを置いて行かれたのです。

 

 

朝から面食らいましたね。

 

 

■大家さんは学校の先生をしていた

 

せっかく淹れて頂いたのでコーヒーは頂きました。その後、お礼を言いに大家さんのところへ行って、少しばかり話をしました。

 

大家さんは、むかし学校で「書道」の教員をされていたそうです。なるほど、学生たちの面倒見がいいわけだ。

 

 

定年後は、世界中を旅されたそうです。世界中を旅行されたことをのときのことを冊子にまとめられていてちょっとした本っぽくなっていたのです。

 

 

こののち、おばあちゃん大家さんとボクはますます関わりをもっていくようになります・・。

 

約30年ほど前に聞いていたラジオ番組@今はなき「大学受験ラジオ講座」

 

先日、初の「大学入試共通テスト」が実施されましたね。英語や数学1Aがセンター試験と比べると大きく変わったとか、地理Bでブラタモリ的中とか話題になっています。

 

約30年ほど前に、ボクもこの時期に「大学入学センター試験」を受けました。あれから30年近く経ってしまったのですね・・・・。

 

今は、Youtubeでの学習系コンテンツが無料で視聴できたり、スタディサプリのような低価格で良質なコンテンツを視聴できますよね。

 

WEBでも様々なサービスがあり、さらには、学習参考書・問題集の種類も豊富でネット連動してるような学参本もあります。

 

ネット環境も含めて、今の中学生、高校生はの学習環境はかなり恵まれているんじゃないでしょうか。

 

 

ボクが受験生のときには、当然、インターネットなどまだ一般的ではなかったし、パソコンですら、ごく一部の人たちが使っているようなものです。

 

 

そんな中、当時のボクらにとってアクセスしやすかったのはラジオ・テレビです。

 

 

1990年頃のことですが、「大学受験ラジオ講座というラジオ番組があり、それが今でいうところの「Youtube」や「スタサプ」のようなものだったかもしれません。

 

 

今の若い人だと、知らない人も多いでしょうね。Youtubeに何本かアップされていました。もちろん、動画ではなくラジオ音源です。 

 

大学受験ラジオ講座を聴いていた方なら、あの懐かしい「大学祝典序曲」も最初に聞くことができますよ! 

 


大学受験ラジオ講座 英語  宮崎 尊 先生 1993年1月1日(金)放送

 

 

 

ボクが聞いていたのは、毎朝5時~6時の間の放送で、テキストは月刊だったので月1で購入します。登壇されていた先生には、英語ではあの伊藤和夫先生、数学では寺田文行先生、秋山仁先生が講師をされていました。

 

 

伊藤和夫先生といえば、『英文解釈教室』がロングセラーとなる英語参考書の著者です。

 

 

英文解釈教室〈新装版〉

英文解釈教室〈新装版〉

  • 作者:伊藤 和夫
  • 発売日: 2017/03/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  

読みこんで、使いこなせる受験生は多くないようですが・・・・・。

 

でも、ラジオ講座での伊藤先生の講義は「わかりやすかった!」と記憶しています。

 

 

そして、

 

数学は「チャート式」ではなく寺田先生の「鉄則シリーズ」を、ボクは使っていました。

  

鉄則 数学II

鉄則 数学II

 

 

この鉄則には本当にお世話になりました。この鉄則も、学校の数学の先生に推されて使うようになりました。ただ、残念なことに、今は廃刊となっていてるようです。

 

 

寺田先生の放送もYoutubeにありました。 


大学受験ラジオ講座―数学・寺田の鉄則 微分・積分(1993年)

 

 

当時は、Youtubeなどは当然なくて、参考書を書いている先生の講義をみたり聞いたりすることは、大手予備校のメイン校舎にでも行かない限り、難しかったのです。だから、ラジオ講座はその先生たちの講義を聞ける貴重な機会でしたね。

 

ボクも受験生のときはそんな貴重な機会を逃したくなくて、5時前に起床して5時から1時間。ラジオ講座で講義を聴いていました。 

 

 

今の時代、朝5時に起きたり、ラジオを聞いたりする必要はなく、いつでもどこでも動画で授業を見ることができます。良質な参考書、問題集、膨大な受験情報が簡単に入手できるようになっています。

 

 

そんな素晴らし環境がありながらも、継続的な学習として、そういったコンテンツを使いこなしている中高生に出会ったことが今のところありません。

 

 

もったいないですね。もっと活用すればいいのにとつくづく思います。 

 

 

入試シーズンもあと2か月ちょっと、コロナ禍での受験ではあるけど、受験生には、コロナやインフル、風邪にかかることなく、全脳力を出し切って挑んで頂きたいです。

 

なんちゃってSEでした7(時給380円)@棚卸し

 

この記事は、前回の「月420時間はたらく」からの続きです。

 

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プロジェクト全体が遅延気味で、うちの会社とK社はおよそ1か月ほどの遅延であった。

 

そのため、全員総がかりで「プログラムテスト」を実施した。ボクもなんとか「プログラム設計書」を書くことができるようになり、他の人が書いた「プログラムテスト設計書」をもとにプログラムテストも同時に実施していた。

 

 

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Photo by Kaleidico on Unsplash

 

 

計画全体のフェーズが「テスト計画・実施」に入っていたので、結局、ボクがこのシステムのプログラムを読むことはあったけど、プログラムをコーディングすることはなかった。

 

 

すべてのモジュールのプログラムテストを終えることが最優先であった。そのため、前回も書いたように、月420時間勤務が2、3ヵ月続いた。

 

 

そして、これだけ働いて振り込まれた給料が手取りで16万だったので、手取りの給料を時給換算すると1時間約380円。めっちゃ、安いなぁ。。。。。

 

 

そして、なんとか「プログラミングテスト」が完了した。

 

 

その後、たまたま、いろんなドキュメントを読んでいて全体像がわかっている方だったので、「詳細設計書」をもとに「単体テスト」を実施し、「基本設計書」をもとに「結合テスト」を実施するようになった。

 

 

要件定義書や基本設計書はかなり読み込んでいたので、このプロジェクトの業務内容やシステムの仕様に詳しくなっていた。

 

 

そのおかげなのか、N社主導のテストメンバーとなった。自社が入っていた箱(建物)からは離れて、別の箱(建物)に異動となり、「要件設計書」をもとに、「総合テスト」や、「他システム連動テスト」、「本番実データテスト」などのテストも設計し、実施することになった。

 

 

夏になる頃、ボーナスが出るという話をきいた。

 

 

時給380円にボーナスか。。。。

 

 

ボーナスが入ったらしいということを自社の人から聞いて、ATMで通帳記入した。そしたら、賞与75000と印字されていた。バイトのときですら、夏に賞与が出ていて10万はもらっていた。

 

 

 

これだけ働いて、これなのか。。。。

 

 

 

通帳を眺めながら、桁を読み間違えていることに気づいた。

 

 

 

750,000

 

 

と記帳されていたのだ。

 

 

んん!!!!

 

 

ここまで頑張ってきたことが報われた気がした。

 

 

しかも、賞与とは別に、月末に給与も入って、その月だけで、ボクの口座は一気に90万ほど増えたことになる。

 

 

はじめて、「正社員っていいもんだなぁーー!」って実感した。

 

 

このシステムはリリースまでに5年かかる大型プロジェクト案件であった。ほぼ、2年間は様々なテストをひたすら計画し、実施していた。法律が改正されたりすると、それにあわせてシステムに修正が入るので、それ用のテストも設計し実施していた。

 

 

この現場に入ってから半年で、初級システムアドミニストレータを取得し、さらに半年後には、基本情報技術者の資格を取得した。このときはじめて「システム開発」全般を勉強できて、今やっていることの意味や、汎用性のある考え方がみについたと思う。これは本当に勉強してよかった。

 

 

2年もテストを設計し実行していたから、プログラムを全然書いていない。しかも言語はCOBOL。当時、流行っていた、もうちょっと軽い感じのWEBシステムで使えるような言語(Javaとか)を使ってみたいというのもあった。

 

 

途中、体もおかしくなり、過敏性腸症候群となって(正確には診断されていないけど、症状的にはまさにコレ)、都内まで1時間半をかけての通勤が辛くなっていた。

 

 

胃腸の検査をしても、正常と言われ、心療内科の受診を勧められ、抗不安剤?を処方されて使ってみたけど、ぜんぜん改善しなかった。

 

 

やはり、過敏性腸症候群の症状が一番つらかった。また、給料と賞与(夏・冬・春の3回あった)を合わせた年収は思っていた以上に良かったけど、 仕事の将来性、エンジニアとしての汎用スキルが身につかないと思い、会社を辞めることにした。

 

 

わずか、2年間ほどお世話になった会社だが、あまりにもいろいろが強烈すぎて今でも当時の事はよく覚えている。未経験で文学部卒でフリーターだったボクをよくやとってくれたものだ。身をもっていろんなことを経験させてもらい、今では感謝している。

 

  

その会社を辞めたときってまだ20世紀だった。たしか、20世紀最後の年だったかな。。。

 

 

仕事上であれほどの大変さ、辛さを超えるような仕事はまだしていない。一番最初についた仕事が、一番ハードできつかった。

 

 

でも、それが良かったと思う。最悪で劣悪な状況下で仕事をしたので、どこでもやっていけるって思えるようになった。その経験はあとあと自信になっていった。

 

 

その後、3週間ほど有休を消化して、次の会社へ転職した。

 

なんちゃってSEでした6(月420時間はたらく)@棚卸し

 

この記事は、前回の「やっと全体像がみえた」からの続きです。

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あまりにも現状のことがわからな過ぎて、ボクが任されたタスクの担当をはずされ、他のメンバーの補助作業(つまり雑用)をするなかで、あるドキュメント(資料)をみることができて、わからな過ぎた全体像がすっきりとわかるようになった。

 

その資料が

 

「要件定義書」

 

だった。

 

これが最上位群のドキュメントで、ここから、「基本設計書」「詳細設計書」「プログラム設計書」を作成してくのである。

 

これらのドキュメントをくまなく読み、ノートにとって情報を整理し、Excelで図を書いてまとめていった。

 

そして、担当を外されしまったタスクである「住所変更・過誤納処理」の「プログラムテスト設計書」の作成の意図と、そもそも何をテストすればいいのかもようやくわかった。

 

ここまでくるのに3~4週間かかっている。

 

「プログラム設計書」から、プログラムが正しく動くこと(エラー処理、例外処理も含めて)を確認することを目的としたテストを実施するための「プログラムテスト設計書」をつくればよかったのだ。

 

そのことがわかったので、雑用(お手伝い)しながら、みなさんが作成したテスト設計書の間違いや、抜けている部分などを指摘したり修正することができるようになり、ようやく、役に立つことができるようになった。

 

 

それでも、k社が請け負っている部分が予定よりも1か月も完成が遅れており、険悪な雰囲気になっていた。K社だけではなく、別のD社も遅延していて、そこの上司にキレた部下が殴り掛かり殴り合いがはじまった。しばらくしてまわりの人たちに取り押さえられていた。。。

 

 

この頃は、週に1回しか帰宅することはできず、普段は、その出向先の近くのビジネスホテルに寝泊まりしていた。8時に大きな箱(建物)に入り、24時頃にホテルに戻っていた。

 

 

こんな仕事生活が、ほぼ2~3か月続いた。当時のボクの勤務稼働時間をみてみると、

 

420時間

 

ほどあった。みんなこれぐらいが普通だった。

 

 

途中、一人胃潰瘍か何かで吐血して入院した。その建物内のトイレへ行くと、ときどき、鮮血が落ちていることがあったので、他にもムリしながら仕事をしている人がいたのだろう。

 

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Photo by cottonbro from Pexels

 

たしか、サクラが咲くころの季節だったが、気づいたらサクラをみるともなく、GWが近づいていた。そのGWも当然のことながら出勤。

 

 

ピークが過ぎても、勤務時間は月平均300時間はあったと思う。

 

 

この頃には、毎日家に帰宅できたのだが、朝、電車に乗ると、お腹が痛くなり、下痢になりトイレに駆け込むようになった。不思議なことに職場につくと、おさまるのだ。何度も続くので、すべての駅のトイレの場所を覚えてしまったぐらい。

 

 

もしかすると、今でいうところのブラックな環境だったのかもしれない。当時はそんな言葉なかったし、大人として働くってことはこういうことなんだって飲み込んだ。

 

 

つづく。

 

 

なんちゃってSEでした5(やっと全体像がみえた!!)@棚卸し

この記事は前回からの続きです。

 

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自分が何をやるべきなのかもよくわからないまま、1週間が過ぎて全体の進捗会議で、担当しているタスクの進捗が0%なのに、50%とか適当なことをいって、それがK社のエライ人にバレて大目玉をくらい、担当を外され、自社メンバーの雑用係になった。

 

雑用といっても、みなさん各々のタスクに没頭して取り組んでいるので、ボクの手を借りるようなこともそんなになさそうでした。やっていたのは、資料の整理とか、ドキュメントの印刷ぐらいかな。

 

他のメンバーや上司のAさんには申し訳ないが、正直、気がラクになっていた。正気に戻った感じすらあった。

 

 

そこで、今回の案件がそもそもどういったものなのか、全体像を自分で調べてみる気になり、課長やAさんに、

 

全体像が分かるような資料があれば見せてください

 

とお願いしたところ、課長から分厚いキングファイルが数冊渡された。

 

 

課長からは「そんなもんみてどうするんだ?」みたいなことを言われた。

 

 

このシステムが一体なんなのかを知って、自分なりにまとめてみようと思っただけのことなのだけど、課長も他のメンツも全体像に興味はなさそうだった。

 

 

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さっそく、資料をじっくりと見て見ると、、、、

 

 

冒頭に、この開発案件の目的と内容がちゃんと書いてある!

 

 

このとき、はじめて、やっていることの全体像がわかった。

 

 

それは、ある基幹システムのシステムリニューアルであった。開発規模はめちゃくちゃでかい。日本国内の大手のITベンダーがすべて参画しているような超巨大プロジェクトであった。

 

ハードに関しても、汎用機から端末まですべてリニューアル。ソフトウェアも当然のことながら全てリニューアル。かなりのおおがかりなプロジェクトだ。発注元は官。全体を統括しているのは、情報サービス企業としては日本最大のN社。

 

 

ソフトウェアはユニットA、B、C、D・・・と分けられていて、ボクらがいた部屋は最大ユニットAであった。

 

 

このユニットAの開発に、請負った会社が先ほどのN社とは別のN社でその下請けにさらに4社ほど。その1社であるK社のさらに下請けにうちの会社がいることもわかった。総勢500人ほどが関わっていることもわかった。

 

 

開発期間は最終的には5年ぐらい。そのときは第1フェーズの2年目でその終わりの頃で、ユニットA全体が遅延しているようだった。

 

 

これで、全体像がわかり、デカイ部屋にいるここの人たちが何をやろうとしているか、漠然だがわかった。

 

 

さらに、資料を読み進めていくと、K社が担当ていいるのが、ユニットAの中でも、ユーザーの情報変更や、お金の返金に関わるシステムであったので、かなり念入りにシステムが構成されてることもわかった。

 

 

そのキングファイルの中には「要件定義書」「基本設計書」があり、これがわかりやすかった。そこからさらに、「詳細設計書」を読んで、より詳細がみえてきた。最後の方に「プログラム設計書」があって、これが一番分量が多かった。

 

 

どうやら、資料には読むべき順番みたいなものがあって、

 

要件定義書

 ↓

基本設計書

 ↓

詳細設計書

 ↓

プログラム設計書

 

 

と、こういう順番で読んでいくことでボクにも理解できた。

 

 

システムの開発工程では当然の知識だけど、その時のボクはこういうことは全く知らず、このときはじめて知った。

 

 

これで、頭の中がかなりクリアになった。はじめっから、これを説明してほしかったなーっと思いつつ、自分なりにわかるようにノートにまとめ、それをまたExcelにして全体図を書いて整理した。

 

 

そして、続けて読んでいくと、、、、

 

 

なんと!!!ボクが担当していた「じゅうへん・かごのう・・・」を説明している基本設計書があったのだ!

 

それを読んで、何をするシステムかもわかった。じゅうへんは「住所変更」、かごのうは「過誤納:間違って多く納付されたときの処理」であった。

 

 

やっと、「プログラム設計書」にたどり着き、ソースレベルの一歩手前まで近づけた。

 

 

 だいたい、1週間ほどかけて、K社が関わっている、詳細設計書レベルまでは読み込んで、うちの社が担当しているモジュールの「プログラム設計書」はすべて目を通した。

 

 

つづく。

なんちゃってSEでした4(とうとうバレてしまった)@棚卸し

この記事は前回からの続きです。

strengths.hateblo.jp

 

およそ1か月半かけてプログラミング研修が終わり、本社ではない、現場先に出向するようになり、初日から言い渡されたタスクが何がなんだかさっぱりわからないまま、1週間を終えようとしていた。

 

「テスト設計書」を作成することが、ボクに与えられたタスクなのだが、プログラムソースをみても、その膨大な量に圧倒されどこをどうみていいかもわからないままだった。

 

ただ、時間だけが過ぎていく。手は動いているが、中身は何も進んでいない。こういうのを仕事をしているふりっていうんだろうな。

 

その週の終わりの日に、チーム単位の進捗報告会なるものがあった。

 

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Photo by Christina @ wocintechchat.com on Unsplash

 

はじめて参加するのだが、どうやらチーム単位といっても、ボクが所属している会社だけではないようで、20人ほどいた。

 

信頼できる上司Aさんに聞くと、うちの会社は今回の開発のごく一部を受託していて、その発注先による進捗報告会とのこと。

 

各自、順番に担当しているタスクの報告を聞かれて答えていく。ボクは当然実質進捗ゼロなのだけど、ゼロなんて言えないので、50%ですと答えておいた。。。。

 

で、次の週の真ん中あたりに、その発注先の上位の管理職Bさんが、遅延を挽回するってことで、直接ボクらをチェックするようになった。

 

順々に各自の作業の途中成果物を確認しながら、Bさんがボクのところへやってきて、さっそく進み具合を確認しはじめた。みるみる顔色が変わるのがわかる。

 

 

これは、、、、、

 

何もできてないじゃないか!!!

進捗を偽って報告しているな!!!!

 

 

Bさんからめっちゃ怒られ、ついでに、信頼できる上司Aさんにも

 

部下の管理できてない!!

 

って怒っていた。

 

 

まあ、いつかどこかでこうなることはわかっていたのだけど、Aさんは、その発注会社のBさんからは、「担当から外せ」と言われたようで、ボクは担当するタスクから外れた。Aさんから怒られることはなかったけど、申し訳なさいで一杯になった。

 

 

まあ、当たり前なことだ。ボクが逆の立場なら、すぐに担当を変えるように指示する。オーバースペックならば、別の人がやるしかない。納期はボクの成長なんか待ってくれないから。

 

 

で、結局、担当は外され、みんなのフォローアップをやるという雑用になった。よく帰社しろと言われなかったものだ。使いものになっていないのだから、返却されちゃうと思ったけど。まあ、あとあと必要となるからなんだけど。。。。

 

 

でも、正直、ホッとした。背負いきれない荷物をずっともったまた動けないでいたから。

 

 

それに、実感を伴った学びがあった。

 

・悪い報告はすぐにする。

・相手の顔色気にせず、躊躇せず不明点はしつこく聞け!

 

担当を外された日から、ボクは自社メンバーのための雑用係となった。

 

なんちゃってSEでした3(研修とは雲泥の差)@棚卸し

 

この記事は前回からの続きです。

strengths.hateblo.jp

 

出向先での仕事2日目。

 

前日に言われた仕事にとりかかるのだが、結局、自分が何をやればいいのか、いまいちわからず、時間だけが過ぎていく。

 

パソコンの前で、ただ、Excelをいじくりまわしているだけだ。「テスト設計書」の雛形とサンプルデータはあったので、それを基になんとなく作っていた。やっていることがあっているのかどうかもわからずに。

 

そこで、1か月先に研修をあがっていた「ほぼ同僚」がここにはいたので、どうやって「テスト設計書」を作成しているのかを聞いてみた。

 

彼のやり方は、プログラムソースを見て、それを手がかりに「テスト計画書」を作成していた!

 

なるほど!!!

 

 そうすれば「テスト設計書」はプログラムにそって作成できそうだ!

 

なんて、思っていたが、、、、

 

よくよく考えたら、プログラムしたものテストするのだから、

 

「プログラム設計書」→「プログラミング」

            ↑ テスト実施

「プログラム設計書」→「テスト設計書」

 

このように「プログラム設計書」から「テスト設計書」をつくらないと、本来のテストにならない。

 

 

設計書によってプログラムをしたものを、設計書から起こしたテスト設計書でテストを実施する。だからこそ、設計通りにプログラミングされているかどうかがわかるわけだし、バグも出せる。

 

 

だが、彼がやっていたのは、

 

「プログラム設計書」→「プログラミング」→「テスト設計書」

 

こんな流れだ。

 

 

これでテスト実施すると、ほとんど合格になってしまうんじゃないか??

プログラムしたものから「テスト計画書」を起こしているのだから。

 

 

とにかく目の前の作業を無事終わらせたい!と思っていたので、その時は何も考えず、彼が自信満々でアドバイスをくれたことをボクもさっそくやろうとした。

 

そして、はじめて、プログラムソースをみてみた。

 

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Image by Boskampi from Pixabay

 

研修で習ったのとは、けた違いのコード量。研修ではせいぜい数百行ぐらいだったものが、ここではかるく10000行はいっているんじゃなかっただろうか。

 

20年以上前の記憶なので、正確なコード量は覚えていないが、研修でやったプログラムのコード量よりも10~30倍ぐらいあるような膨大な量だったことは覚えている。

 

もしかすると、みていたプログラムが冗長なへっぽこな作りだった可能性もあるが。。。。

 

この膨大なコードの中からどれを探して、何を抜き出し、「テスト設計書」として起こしていけばいいのかもわからず。。。。

 

研修レベルと、実際の仕事のレベルが雲泥の差すぎて、またしてもボクはパソコンの前でフリーズしたまま、一日が終わった。